「ジェニファー。ここが今、私達が住んでいる別荘だよ」伯爵とジェニファーが出会ってから3日後。2人は汽車を乗り継ぎ、馬車に乗って大きな屋敷に到着した。周囲は美しい自然に囲まれ、大きな屋敷や城が点在している。その中の一つがフォルクマン伯爵家が所有する屋敷だったのだ。真っ白な大きな屋敷は、周囲の山々に美しい草原、そして青い空に良く映えた。「すごく素敵なお屋敷ですね……! それで、私はこのお屋敷でどんな仕事をすればいいですか?」目をキラキラさせながら、ジェニファーは伯爵に尋ねた。「仕事などする必要はないよ。ジェニファーは娘の話し相手になってくれるだけで良いのだから」仕事の話が出てきたことで、伯爵は驚いた。「え? でも働かないで置いてもらうなんて」「ジェニファー。君はまだ子供だ。働くのは大人になってからでいいのだよ? 少なくともこの屋敷にいる間は働く必要はない。人手は十分足りているのだから。その代わりジェニーをよろしく頼むよ」「はい、伯爵様」ジェニファーは大きく頷いた。「それでは、屋敷に入ろうか」伯爵はジェニファーを連れて屋敷へ向かった――****屋敷に入ると、大勢の使用人たちが出迎えた。その中で、スーツ姿の初老の男性が進み出てきた。「お帰りなさいませ、旦那様」「ただいま。エバンズ。荷馬車が屋敷の前にある。この子の荷物が積まれているから荷運びをしてくれ」その言葉にエバンズと呼ばれた男性がジェニファーに視線を移した。「この方が、ジェニー様のお話相手になられるジェニファー様ですね?」「はじめまして。ジェニファー・ブルックです。よろしくお願いします」ジェニファーはお辞儀をすると、エバンズは目を細めた。「これはこれは……大変、ジェニー様に似ておられる方ですね」その言葉に、集まっていた使用人たちも頷く。「皆もそう思うか? 何しろ、ジェニファーの父親は私の弟だからな。皆、この子のことを頼んだぞ。ジェニーと同等に扱うように」『はい!』声を揃えて使用人たちは返事をする。「それで、誰がジェニファーの世話をするか決まっているのか?」伯爵はエバンズに尋ねた。「はい、決まっております。アン、来なさい」その名前にジェニファーの肩が小さく跳ねた。(アン……? 叔母様と同じ名前だわ)ここにアンがいるはずはない。分かってはいるものの、ジェニ
「まぁ! お客様。本当によくお似合いですわ!」店内に女性の声が響き渡る。「そうだな、私も良く似合っていると思う」伯爵が笑顔でジェニファーを見つめている。「あの……伯爵様。本当に、このお洋服を買ってくださるのでしょうか?」ジェニファーは鏡に映る自分を見つめながら、遠慮がちに尋ねた。鏡の中のジェニファーは大きなリボンで結んだ帽子に、初夏の色を思わせる淡い水色のワンピースドレスを着用していた。「当然だよ、そのためにこの店に来たのだから」こんなに可愛らしいドレスを着たことが無かったジェニファーには信じられなかった「でも……私なんかにこんなドレスは勿体ないです」「そんなことはないよ。それにこれから一緒に一等車両の汽車に乗るのに、さっきみたいな服では乗せてもらえないのだよ」伯爵はジェニファーにドレスを着せるために嘘をついた。「え? そうなのですか!?」「そうだよ。一等車両に乗るには、それなりの身分の人たちが乗る。似つかわしくない姿をしては駄目なのだよ」だが、あながち伯爵の言うことは嘘では無かった。現に一等車両に乗る人々は、お金持ちか貴族ばかりだった。貧しい身なりをしていれば、周囲から白い目で見られてしまう。最悪、他の車両に移るように言われてしまう可能性だってあるのだ。「それなら、伯爵様の言う通りにします。……ありがとうございます」お辞儀をするジェニファー。「よし、それでは先ほど試着した服も全て買おう」伯爵は女性店員に声をかけた。「はい! ありがとうございます! 直ちにお包み致しますね」2人の会話にジェニファーは驚いた。何しろ、試着した服は全部で10着以上あるのだから。「そんな! あんなに沢山のお洋服を買ってもらうわけにはいきません!」「何を言うんだね? あれではまだまだ足りないぐらいだよ。何しろ、これからは私達と一緒に暮らすのだ。それに見合った格好をしてもらわないとな。これはジェニーのためでもあるのだから」「ジェニーのため……?」「そうだよ。あまりみすぼらしい姿ではジェニーの話し相手にふさわしくないからね」ジェニーのためと言われてジェニファーは納得した。今よりもっと子供だった頃に会ったジェニーは、まるでお人形のように愛らしくて美しいドレスを着ていたのを思い出す。「分かりました。では、伯爵様……お洋服を買って下さい」「
ジェニファーはダンとサーシャの姿が見えなくなるまで、馬車の窓から身を乗り出して手を振り続けた。「ダン……サーシャ……」2人の姿が見えなくなり、ようやくジェニファーは席に座ると伯爵が話しかけてきた。「あの子達とは仲が良かったのかい?」「はい、とても仲が良かったです」ジェニファーは笑顔で返事をする。「そうだったのか。名前は何というんだい?」「男の子はダン、女の子はサーシャっていいます。後、もうすぐ1歳になるニックっていう男の子がいるんです。まだ赤ちゃんなので、とっても可愛いんですよ」「もしかして、その赤ちゃんの子守もジェニファーの仕事だったのかい?」伯爵はジェニファーの手をじっと見つめる。 まだ10歳の少女の小さな手は、豆が出来て潰れた跡が残っている。見るからに痛々しかった。(それに比べ、あの女の手は随分と綺麗だった……こんな小さな子供に全ての家事を押し付けていたのか……まだ10歳だと言うのに)自分の姪っ子が使用人のようにこき使われていたことは彼にとってショックだった。 何より、ジェニファーは自分の娘と同い年だったので尚更だ。「ジェニファー。君はまだ10歳なのに、叔母にこき使われていたのだろう? 可哀想に……さぞかし辛かっただろう?」「辛かったですけど、ケイトおばさんがいつも私を助けてくれました」「ケイトおばさん?」「はい。ケイトおばさんは近所に住んでいて、私にお料理やお洗濯、お掃除のやり方を沢山教えてくれたんです。私は……本当に何も出来なかったから」「何だって? それでは、あの女はジェニファーに家事を教えることもせずにいきなり全てをやらせようとしたのか?」「……はい。そうです。でも、今はケイトおばさんのお陰で何でも出来るようになりました。薪割りはまだ……うまくやれませんけど」俯いて答えるジェニファー。「なんてことだ……」伯爵は歯を食いしばった。改めてアンに対する激しい怒りがこみ上げてくる。「それでは、手紙を読め
「それではジェニファー。迎えの馬車を家の外で待たせてあるので行こうか? 荷物の準備は出来ているかい?」フォルクマン伯爵がジェニファーに尋ねた。「はい、伯爵様。出来ています、部屋に置いてあるので取りに行ってきますね」「なら一緒に行こう。運ぶのを手伝うよ」その言葉にギョッとしたのはアンだった。「え!? 伯爵様はどうぞ応接室でお待ち下さい。荷物ならこの子が1人で持てますから」「何を言う? こんな小さな子供に1人で運ばせるような真似はさせられない。さ、ジェニファー。案内してくれるかい?」「はい」素直に返事をすると、ジェニファーは前に立って歩き出した。その後をフォルクマン伯爵もついていき……。「何故、あなた方もついてくるのだ?」足を止めてフォルクマン伯爵は振り返った。彼の背後にはアン、そしてザックがついてきている。「い、いえ。わ、私達はジェニファーの保護者ですから……」視線を泳がせながらアンは答える。その様子を見た伯爵は黙って前を向くと、声をかけた。「足を止めさせてすまなかったね。ジェニファー。案内してくれ」「はい」ジェニファーは頷いた――「ここが私の部屋です」ジェニファーに案内され、部屋の中に足を踏み入れた伯爵は驚いた。「本当に、ここがジェニファーの部屋なのかい?」「はい、そうですけど?」首を傾げるジェニファーに伯爵はショックを受けた。それもそのはず。この部屋にある家具はベッドと小さなチェストだけだったのだ。「なんてことだ……これではただ寝て、着替えをするためだけの部屋じゃないか」「はい。ここはそのための部屋です」「勉強机も無いじゃないか。本は読まないのかい? 女の子なら人形遊びくらいするだろう?」「勉強はしていませんし、本も読みません。人形遊びは……したことがないです。だって私の仕事は家事ですから」「ジェニファーッ! 余計なことを言うんじゃないの!」アンが叱りつけた。「何が余計なことだ?」伯爵が冷たい目でアンを睨みつけた。「あ……そ、それは……」「こんな小さな子供に、すべての家事を押し付けるとは……。しかも学校にも通わせず、教育も受けさせない。これはもはや虐待だ。訴えても良いレベルだな」「ぎゃ、虐待だなんて……!」すると、ザックが震えながら懇願した。「お、お願いです! どうか訴えるのはやめて下さい! そん
金の髪に青い瞳の男性はこの辺りでは見かけたことがない、立派な身なりをしていた。高級そうなスーツにネクタイ。会社勤めをしているザックは、ひと目で相手がどれほど金持なのか見抜いてしまった。(一体、この人物は誰だ? もしや……)そのとき、アンがヒステリックに叫んだ。「一体あなたは誰ですか!? 人の家に勝手に上がり込むなんて、泥棒と同じですよ!」すると男性は冷たい視線をアンに向ける。「それは人の気配がするのに、いくらノックをしても誰も出てこないからだ。それで家の中に入ってみれば、怒鳴り声が聞こえている。だから様子を見に来てみれば……大体人の家と言っているが、ここはジェニファーの両親が住んでいた家だ。ということは、この家の持ち主はジェニファーではないのかね?」「な、なんですって……! どうしてそれを……!」その質問を男性は無視し、今度は笑顔でジェニファーに話しかけてきた。「久しぶり、ジェニファー。私を覚えているかね?」「はい……! フォルクマン伯爵。覚えています」「フォルクマン伯爵ですって!?」その言葉にアンの顔が青ざめる。「このバカッ! お前は伯爵家の方になんという口の聞き方をするのだ!」ザックはアンを怒鳴りつけると、ペコペコ頭を下げた。「初めまして、フォルクマン伯爵。我々はジェニファーの後見人の、ザック・ウッドと申します。こちらは妻のアン。そして子供たちのダンにサーシャです。先程は妻が大変失礼な態度を取り、大変申し訳ございません。ほら! アンッ! お前も謝れ!」相手が伯爵だということを知り、アンは低姿勢に出た。「フォルクマン伯爵、申し訳ございませんでした。私はジェニファーの叔母のアンと申します。この子の亡くなった母親が私の姉でして、今は私が代りにジェニファーの母親代わりをしています」「母親代わりというのなら、もっと母親らしいことをしてやるべきではないのか? こんな小さな子に、全ての家事を押し付けているのだろう? 会話が廊下にまで聞こえていたぞ」「!」その言葉に、アンの肩がビクリと跳ねる。(そんな……まさか、伯爵に聞かれていたなんて……!)「手紙に金銭の要求を書かせたのも、あなたですか」「そ、それは……!」「違うのかね?」「いえ……そう、です……」「私から金銭を要求したのは、使用人を雇うためなのだろう? ジェニファーの
2日後――今日はフォルクマン伯爵家がジェニファーを迎えに来る日だった。この日のジェニファーは朝4時から起床していた。こんなに早くから起きているのは、アンから家事を命じられていたからである。家事が大嫌いなアンは、ジェニファーが去る直前まで働かせようとしていたのだ。そこでジェニファーは夜明け前からエプロンをして、1人で黙々と家事をしていた。井戸水を汲んで、台所に運ぶ頃には夜が明けていた。「どうしよう……まだ洗濯だって終わっていないのに、夜が明けてしまったわ」料理も洗濯も最悪の場合、ケイトに頼むことが出来る。だけど、そんなことはしたくなかった。(ケイトおばさんには、迷惑かけられないわ。おばさんだって家の仕事があるのに……自分でやれることはやらないと)まだ10歳のジェニファーは自分の置かれた環境で、すっかり大人びた子供になっていたのだ。「急がなくちゃ……!」ジェニファーは自分に言い聞かせると、汲んだ重たい水桶を台所へ運び続けた。――午前8時台所にアンの怒声が響き渡った。「何をしているのジェニファーッ! 食事の準備が出来ていないってどういうことなの!!」「ご、ごめんなさい。叔母様、洗濯をしていたら遅くなってしまったの」ジェニファーは震えながら答える。「だったら、もっと早くから洗濯をしておけばよかったでしょう!」「でも、私……朝の4時から起きて仕事を……」「朝の4時から起きていて、まだ食事の準備が出来ていないなんて要領が悪すぎるんじゃないの!?」「そんな……」そのとき、騒ぎを聞きつけたダンとサーシャが現れた。「お母さん!! 姉ちゃんを怒るなよ!」「そうよ! 可愛そうだわ!」「何ですって……? 私は、あなた達がお腹をすかせているかと思って言ってあげているのよ!?」「だったらお母さんが食事を作ればいいじゃないか!」「そうよ!」「ダンッ! サーシャッ! 一体あなた達は誰の味方なのよ!」怒りで顔を赤く染めるアンは、ジェニファーを睨みつけた。「何だ? まだ食事が出来ていないのか? 一体どうなっている!」そこへ叔父のザックが現れ、アンを睨みつけた。「何で、皆して私を責めるの? 家事はジェニファーの仕事でしょう? 私はニックの子育てで忙しいのよ!」「だが、今日からジェニファーはいなくなるのだ。全ての家事はアン、お前の仕事にな